昭和50年06月28日 朝の御理解



 御理解 第47節
 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」

 信心をさせて頂く者は薬を頂くでも、神様にお供えをさせて頂いてそれを頂く。又はお取次を頂いて、病院に行くなら行くと。そういう行き方をすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。おかげにならぬと云うて居られる所を、色々追求してみると、これは断言的ですね、断言してあります。ですからここでは病気が治るとか、治らないと言う事ではないと言う事です。
 それは医者にお取次を頂かんでも、神様にお供えをしなくっても、薬を飲んで例えば頭痛がしよるなら頭痛が軽くなるとか、腹が痛んでおるのが、腹が痛まなくなるとか、と云うおかげを実際は受けて居る。薬のいわば御利益を受けておりますから、おかげにならんと言う事はおかしいのです。ですからおかげにならんというのは、結局信心にならんと言う事。だから祈れ薬れと言う事もです。
 只お取次を頂いて医者に掛かり、お取次を頂いてお薬を飲むと成程そうですけれども、これは結局自ずとそうなされて来る。云うならば神様が中心信心が中心、神様を中心に頂いて居る。神様を頂いて居るならばです、必ずお取次を頂かなくっても、又はお供えをしなくっても、それはおかげも早いがと仰るおかげになると思うです。ただ形式だけ神様にお供えをしたり、又はお取次を頂いたり、だから安心して医者に掛かれるとか、安心して薬も飲めれる、そう言う事も云えます。
 だからそういう在り方も身に付けて行かなきゃなりませんけれども、最後のそう言う事をしなかったら、薬れ祈れにする事にするから、おかげにならんと仰っておる所をみるとです。この辺に私共が、深く信心を考えて見なければならないと言う事になります。だから、祈れ薬れという、病気とか薬とか医者とかと言う事だけではない。信心そのものが神様を中心、何時も信心が芯になっておらなければならないと言う事。そして云うならば人事を尽くすと言う事になりましょう。
 神力に先ず縋りそして人力を、人間の成さなければならない分野、神様の働きの分野と、人間の働きの分野が一つになる。そこにおかげが早いと言う事になるのだと思います。教祖様の御教えの素晴らしい事は、この御理解にも感じられますが、人間の幸せになって行く道と云うか、人間が幸せになって行く法則と云うか、そういうものと、天地自然と云うか、宇宙自然の法則と一致点が出ておる所に。
 私は愈々教祖の信心の素晴らしさを感じます。例えば今日の祈れ薬れでもそうです。祈ると言う事を信心と頂かねば。薬れと言う事を人力の限りとこう頂く。いわゆる神乍らに対する人乍らと。神様のお働きを信じて縋る。そして人間のなさなければならない所だけは、本気でそこに実意を尽くすと云うか、此処の所が、私は出来て参りませんといけないと思うですね。云うならば神乍らと、人乍らが一つに溶け合う。
 人間が幸せにならして頂くための、法則と例えば御教えに、打ち向かう者には負けて、時節に委せと仰る御教えがあります。又は人が泥棒じゃとか、乞食じゃと云うても、腹を立てなとか仰る。又は商人に対する、人が十銭で売るものならば八銭で売れと仰る。買場売場を大切にせよと仰る。これなんかは人間が幸せになって行くギリギリの私は法則だと思います。だから金光様の御信心は、私共が幸せになって行く事の為には、どうでも教祖の御教えを、本気で実行しなければならないです。
 その上に天地の大恩。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心という。是は人間が幸せになって行くと言う事に繋がるのです。しかもそれに天地の道理を説いておられます。云うなら天地の法則を余す所なく説いて居られます。天地の法則人間が幸せになて行くための法則。それが一つになっておる、溶け合って居ると言う所に、おかげが受けられる。本当におかげに世界に住む事が出来るという感じが致します。
 合楽で成行きを大切にすると言う事。これは教祖様に対する私の憧念心。それが愈々教祖様の信心の追求とでも申しましょうか。それが実際的な体験となってうまれておる。そこから合楽の御理解は、何時も流れ出ておる訳です。教祖への憧念心それが教祖の信心の追求と言う事になって来ている。それを例えば私が振り返ってみますと、人間が幸せになって行く法則と言う事を、私は知るや知らずや、実行して来たと言う事です。
 天地の道理、天地の御恩徳。それに一つの大きな意味に於いての神恩報謝の心をお育て頂く。そうしながら人間が幸せになって行く条件。それには人間が幸せになる一つの法則がある。その法則に依らなければならない。今二、三の例を挙げましたのもそうです。人が十銭で売るものは八銭で売れと云う、云うならばここに人乍ら、人力の限りをそこに尽くそうとする事が表現されます。打ち向かう者には負けて時節に任せる。云うなら合楽で云う成行きを大事に尊ばせて頂けと云うことです。
 人が例えば泥棒と言うても、乞食と言うても腹を立てな。これなんかはギリギリ人間が幸せになって行く為の必須の条件です。腹を立てよったら幸せは崩れます。そこでいわゆる馬鹿と阿呆という事になる。馬鹿と阿呆で道を開けと言う事にもなるのです。だからお互いが幸せになりたい、幸福になりたいと言う事の為にです、私共が先ずは祈れ薬れと云う様にです。神様を先、信心を先に優先させなければならないと言う事です。薬を先にすると言う事は人間心を先にする。
 その心の底から、昨日の御理解で頂くなら、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私であると云う生き方が身に付いて来る時にです。これは何時の場合でも祈れ薬れになっておる訳です。貴方のおかげを頂かなければ立ち行かないと云う自分自身。昨日の所はそこを説いてありますね。そこを例えば、お取次を頂かなくっても、薬を御神前にお供えしなくってもです、芯がそのまま信心に成りきっておると云うおかげを。
 先ずは頂かなければならんと言う事です。その根本になるもの、それは信心は日々の改まりが第一であり、信心は本心の玉を研くものと仰るから、ここん所を根本義として、そして人間が幸せになって行く事の為の、絶対の法則を守らせて貰う。その上私共は天地の道理、天地の法則と人間が幸せになっていく法則とが一つに溶け合って行く様な生き方を、愈々身に付ける稽古をしなければならんのです。
 昨日一昨日先一昨日、甘木教会で青年教師の一夜信心実修会があっております。青年教師会が出来て丸十五年になるのです。その十五年の記念パーテイの様な事もあったらしいですけれども、ここから光昭と幹三郎と栄四郎と三人で参りました。そしてこういう十五年の歩みと云う十五年間の事を、ずっと色々記録にしてあるものが頂いて来ております。私はある青年教師の方が書いておるのを一寸読ませて頂いたら、私の事が書いてあった。何年前に此処で青年教師の実習会があった時に私のお話を聞かれた先生。
 香春教会の山下と云う先生が書いております。だから青年教師に対して、合楽の先生は、かくあって呉れと願うておられると思うと言う事を書いております。一口ですから読んで見ましょう。「合楽教会長、大坪総一郎先生の講話の中に、私が今日一番おかげを受けておると思います事は、信心をさせて頂く者の上には、困った事怖い事はないと言う事です。困ったなぁ是はどうするかと云った場合には、神様がもう一段信心を分からせて下さろうとする働き以外になく、怖い事に直面しても。
 それは私に度胸を作って下さろうとする御神慮以外にないと云う話がありました。正に神が私に信心を分からせて下さろうとする働きであり、大坪先生にしてみれば、青年教師の先生方、こうですよ、しっかり自覚させて頂きなさいと云う思い、願いを込めてのお話であった様に思えています。」と書いてあります。まさしくそうです。しかし嬉しいですね。こちらが本当に分かって欲しいと云う所をピシャッと頂き止めてね、今でも忘れずに、こうしておかげを頂いておられる事が有難いと思うです。
 そこでそんなら例えば私、皆さん御承知の通りですけれども、そういう信心を身につける為には、どういう信心をさせて頂いたなら良いでしょうかと言う事になるのです。それが今日皆さんに聞いて頂いた事になるのです。今日私皆さんに聞いて頂いた様に、私の場合寝ても覚めても、何時でもどんな場合でも信心だけしかないのです。神様だけしかないのです。そういう信心を私は教祖へ、いわば憧景の念を燃やしておると言う事になるのです。寝ても覚めても、あの人の事が忘れられんというのと同じ事ですから。
 そして教祖様がこういう生き方になれば、人間が幸せになるぞと仰って居られる所をです。それは私も分からんなりに頂いておると言う事。起きて来る一切の事柄を、黙って受けて行こうと云う、それが段々成行きを大切に、成行きを尊ばせて頂くと言う事になり、最近では、その事をを大切に尊ばせて頂くと言う事がです。全ての事柄に御の字を付けて、御事柄として受けて行こうという生き方。そういう生き方を身につけて行く時です。例えそれが病気であっても、どんな難儀な問題であってもです。 
 夕べ私休ませて頂いておりましたら、妹がけたたましゅう云うて私の部屋に入って参りました。今英治ちゃんが硝子に頭を持って行ってから、硝子の破片で前の額口と後からも出血多量で失神しとりますと言うて来ました。そして家内みんなこちらへ走って出て参りました訳でございます。丁度あんなに遅う飯塚ですか、行本さん達が夫婦で参って御理解を頂きよんなさったそうです。それで先生がここの一番下の栄四郎と間違えられとる訳です。一番下の坊ちゃまが大変です。
 来て下さいと云うて、もう風呂に入っとるのが、飛び上がって皆ここへやって来てる訳です女達がそして直ぐ、私の所にお届けに来た訳でございます。相当ひどうやっぱ、当たったじゃろうと思うですね。あげな厚い硝子が割れてる。しかも割れた硝子が、後の坊主頭に落ちかかったげなけん、後坊主と額とをやっとる訳です。丁度椛目が来とりましたから、池尻がすぐ病院に連れて行って、何針か縫うて帰ってきた。
 そういう時にでもですね、私の心の中に慌てにゃならんと言う事が無いと言う事なんです。どんな事が起こって来てもです。例えば頭を打ち割って、そこで死んだと云うて来てもです、驚かんと云うと嘘になりますけどです。私の心の中には、それがおかげの元になると確信するのです。私はすぐにだから勿論私は、見にも参りませんでした。夜中にどうせ出て来ますから、出て来た時に硝子を取り除いてあるから、ここじゃったばいのと思うだけでございますけれどもです。
 そういう信心が段々出来て来たと言う事はです。人間の幸せの条件が備わって来とる訳です。どう言う事が起こっても驚かんで済むとか、慌てんで済むと言う事は、人間の幸せの条件が備わったんだとこう思うです。それには教祖様が仰る、人間の幸せになって行くことの為の法則をです、私が守らせて頂いたからです。それだけならば金光様の信心は小さいでしょう。けれどもその上に、天地の道理を説き明かして居られると言う事です。その天地の法則と、人間が幸せになって行く為の法則とが一つになってです。
 そこから薬れ祈れにすればおかげにならんという反対のです、絶対おかげになるという信心が生まれて来とる訳でございます。例えば馬鹿と阿呆になる事も、人が十銭で売るものは八銭で売る事も。人が泥棒だと言うても乞食だと云うても、腹が立たない事も。打ち向かうものには負けて、時節に任せると言う事も、そういう時に愈々私共が改まりに改まり、本心の玉を研いて行く上に研いて行くと言う事を根本になさせて頂いて、そして教祖の御教えを行ずる所からです。
 おかげにならんと教祖が断言して居られる。それとは反対の、おかげになると断言出来れる信心が生まれて来るのです。ですから先ずは私が教祖に対する傾倒、教祖に傾倒して仕舞う、帰依して仕舞う。皆さんが合楽にお参りされるならば、合楽の先生に傾倒する。合楽の先生に憧念心を燃やす。昨日把木の信徒会長の市川さんが、秋永先生と一緒に、信徒会からの帰りに寄られました。
 丁度夕食の時でしたから一緒にさせて頂いたんですけれども。とにかく合楽の先生の顔を見なければ心が治まらないと言う事を云って居られます。これは私に対する憧念心です。だから例えば胃ガンであったものが、愈々医者にお出られた時には、もう既に胃ガンが形も影もなくなっとったと言う様なおかげを受けられた。その後に於いてもあちらの参拝をしてみえる様子から言うてです、矢張り合楽に対する憧念心。
 もうあんたが初めから合楽の御信者さんじゃったならのと、夕べ言うた事でございましたけれども。もっと素晴らしいものが生れてくるじゃろうと言うた事でしたけれども、あっちは杷木の教会の信徒会長までなさって居られる方です。それでも矢張り私の信心に、ある意味での傾倒であり、憧念心を燃やしておられると言う事です。そこからおかげが受けられるものが生まれて来るんですね。先ずそう言う所から、お育てを頂かんならんと同時にです。私は今日は皆さんが。
 祈れ薬れと云う事を、只お取次を頂いて、薬を御神前にお供えして、それを頂くならば、その薬が効くと云う様な考え方は捨てなければいけません。薬はやはり信心のある者が飲んでも、信心の無い者が飲んでも同じです。薬に変わりはありません。但し祈れと言う事はこれは別の働きです。それは薬は飲まんでも胃癌なら胃癌が良くなる程しの働きが起こって来ると言う事なんです。それを神様を先に立てる所から、それが頂けるんだと言う事を、今日は聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。